島津四兄弟とは?九州の覇権を握り薩摩藩の基礎を築いた戦国大名を解説!

島津四兄弟

歴史好きの間で大河ドラマ化が熱望されている島津四兄弟。

この記事では島津四兄弟のそれぞれについて解説します。

1.島津義久について

島津義久は、島津家の当主として活躍した四兄弟の一番上に当たる人物です。

島津氏第16代当主として活躍し、島津家をまとめた人物でもあります。

そんな島津義久の生涯は大きく分けると、幼少期から三州の平定、数々の紛争から秀吉の軍門に下るまで、そして秀吉から家康への政権交代における島津家の存続に分けられます。

天文2年(1533年)2月9日に15代島津家当主である島津貴久の長男として生まれ、当初から次期当主として目されていました。

幼少期はおとなしく、一部の家臣からは不安視されていましたが、分家であった義久の家を宗家にした立役者でもある祖父の島津忠良からは期待されており、「三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳」を持つといわれていました。

その祖父と同じ忠良を諱(いみな)として元服し、その後室町幕府13代将軍の足利義輝から、「義」の1字を受け取り、義辰(よしたつ)、後に義久として名を定めます。

初陣は島津家と地元の豪族との争いである岩剣城攻めで、以後地元の豪族である国衆との紛争に従事しました。

そして、そのさなか義久は父の隠居により家督を相続し、島津家第16代当主になります。

当主となったのちも紛争に明け暮れ日向(現・宮崎県)の伊東氏との対立や地元薩摩の隣国である大隅国(現・鹿児島県の一部)の平定を行っていきました。

そして、天正4年(1576年)伊東氏を豊後(現・大分県)の大友氏へ追いやり、祖父の予言通り三州(薩摩、日向、大隅)を平定したのです。

その後は九州平定に邁進します。

天正6年(1578年)11月に九州の有力大名であった大友氏を耳川の戦いで破り、織田信長の調停があったため滅ぼすことはできなかったものの大きな痛手を与えました。

天正9年(1581年)には球磨(現・熊本県)の相良氏を降伏させ、天正12年(1584年)肥前(現・佐賀県)の強大な大名である龍造寺氏を沖田畷と呼ばれる湿地帯に誘い込み、圧倒的に兵力で不利だったもののこれを破って、当主の龍造寺隆信を打ち、これも傘下に加えます。

その後は、この破竹の勢いに九州の諸大名が恐れをなし、次々に降伏、肥後(現・熊本県)の隈部氏、筑前(現・福岡県)の秋月氏が傘下に入り、肥後国の阿蘇氏を阿蘇合戦で破るなどしましたが、九州に残った大友氏が秀吉を頼り、秀吉から調停を受けます(惣無事令)。

しかし、義久はこれを無視したのです。

その後秀吉は数万もの兵力を送り込み、これを義久は撃破しましたが豊臣秀吉率いる10万余の兵力にはかなわず降伏しました。

そして剃髪して、名を龍伯と改め秀吉の軍門に下ります。

秀吉の元では、義久は薩摩一国の領主になり、弟の義弘が大隅国の領主となるなど領土は減ったものの、何とか家名を保ちます。

しかし、家臣団はこの豊臣政権に対して様々な抵抗を行い、義久は秀吉の命で弟の歳久に自害を命じるなど家内の安定に必死でした。

このころから島津家の実権は弟の義弘へ徐々に移って行ったことが書状から知られています。

秀吉が亡くなった後、家康が台頭しますが、義久は豊臣側に付き結果は、豊臣側の敗走に終わりました。

当然、徳川政権下では領土没収などもあり得ましたが、義弘が行ったことであるなど様々な理由をつけて2年間にも及ぶ交渉を行い領土安堵に至り、晩年は大隅の国分に国分城(舞鶴城)を築き隠居し当主として島津家を守り抜いたのです。

2.島津義弘について

島津義弘は義久の弟で次男です。

非常に武勇に優れ鬼島津の異名を取りました。

そんな義弘ですが、ひたすら紛争の参加に明け暮れた人生です。

天文4年7月23日(1535年8月21日)に生まれ、元服後はじめ忠平と名乗りましたが、兄同様に室町幕府15代将軍・足利義昭から「義」の一文字を受け、義珍(よしたか)、そして義弘となります。

当初から父のそばで大隅国の豪族との紛争に参加しました。

初期のころは、戦功をあげるものの重傷を負うこともあり、そこまで輝かしい戦績を挙げませんでしたが、徐々に実力をつけ兄義久が家督を継ぐころには伊東氏3,000に対し僅か300の兵で破るなど戦上手になっていたのです。

その後九州東部を中心に戦いを続け、時に兄の代わりに総大将を務めることもありました。

このように実力をつけ、冒頭の鬼島津とも言える奮闘ぶりを見せましたが、天正15年(1587年)、大友氏の援軍要請を受けた豊臣秀吉の九州平定軍と日向根白坂で激突し敗北を喫します。

兄義久が降伏を考えているとき、かたくなに抗戦を主張するなどしましたが、説得を受け豊臣家の軍門に下りました。

この時、兄義久に子どもがなかったため、島津家17代当主として家督を譲られます(諸説あり)。

その後も義弘は戦いを続けました。

2度の朝鮮出兵では積極的に参加し、朝鮮軍を少ない兵力で度々打ち破ったのです。

これにより加増を受け、島津家の面目を保ちました。

その後、豊臣政権内での抗争が起き、関ケ原の戦いが勃発します。

義弘の戦いはここでハイライトを迎えるのです。

当初、家康から援軍の要請を受け、家康の有力な家臣である鳥居元忠が籠城する京都の伏見城に救援へ行くものの、なんと鳥居元忠が救援を拒否し、やむなく石田三成の側である西軍に参戦することになりました。

もともと西軍で戦う気がなかったことや数千にも満たない小数の兵力でだったこともあり、戦場で兵を動かそうとはしなかったのですが、交戦状態になり孤立します。

さすがの義弘も切腹を覚悟しますが、甥の豊久の説得を受けて伊勢街道からの撤退を目指し、これまで日本の戦いの歴史になかった相手の正面を突っ切る正面退却を試みたのです。

一時は家康本隊をかすめるなど非常に大胆な退却で、追撃を試みた井伊直政に重傷(この傷が元で死亡)を負わせて見事成功し、史上初の快挙を果たしました。

その後、戦乱のない平和な時代が訪れ、義弘が前線に立つことはありませんでした。

その間、兄義久が島津家の安堵のために奔走し家名は保たれたのです。

ちなみに義弘は当時としては非常に長寿で83歳(一説には85歳)の天命を全うしています。

3.島津歳久について

島津歳久は島津貴久の三男です。

兄二人の影に隠れがちですが、歳久も戦争に明け暮れた一生を送ります。

兄二人とともに大隅国の豪族である祁答院(けどういん)良重が拠る大隅岩剣城における合戦で初陣を果たし、戦いの人生が始まりました。

当初は、祁答院との戦いを主に担当し、天正3年(1575年)には上京して織田信長との交渉に当たるなど、兄二人のサポート役としても活躍した人物です。

悲願の祁答院地方の平定後は生涯をこの地域の統治に務めました。

二人の兄の陰に隠れがちな歳久も秀吉と対峙した九州征伐の際は、家中が徹底抗戦を唱える中、唯一和平案を提案します。

歳久は秀吉の能力の高さに脅威を持っており、的確な人物評価ができたことを物語るエピソードです。

結局、秀吉と戦うことになった際、歳久は先鋒として奮闘します。

そして穏健派から一転し、和睦交渉に来た秀吉一行に対して矢を放つなど秀吉の暗殺未遂を起こすなど過激な行動に出るようになりました。

また、秀吉の天下統一後に行われた朝鮮出兵時も出兵を拒否、2回目の朝鮮出兵時は出兵するものの途中で家臣の梅北国兼が秀吉に対して反乱を起こし、歳久の家臣も多く参加していたため、ついに島津家から孤立しました。

兄義久も泣く泣く歳久の軍を攻撃しこれを打ち取り、死去したのです。

家中ですかれる人物として知られており、歳久の死の際には殉死者も出たことや下戸だった義久の代わりに杯を受けて仲を取り持つなどサポートに徹した人物と伝わっています。

4.島津家久について

島津家久は天文16年(1547年)に生まれた島津貴久の四男です。

上の三人とは異母弟に当たりますが、兄3人は家久に対して友好的に接していました。

幼少の頃、兄弟四人で連れ立って、鹿児島吉野で馬追を行った時に家久が「馬の毛色は大体が母馬に似ております、人間も同じでしょうね」と(異母弟であることを気にするように)言ったところ、兄の義久は諫めるように「父に似ることもあるし、人間は獣ではないから学問をして徳を磨けば、不肖の父母よりも勝れ、また徳を疎かにすれば、父母に劣る人間となるだろう」と言いました。

それをきっかけに家久は奮起し、活躍を始めます。

永禄4年(1561年)7月、大隅国の大名である肝付氏との戦いで初陣を飾り、その後は大隅地域の平定に従事しました。

すぐ上の兄の歳久と共に京都へ行き、兄が交渉などを行っている間、京都で見分を広げたのです。

その後も様々な戦で活躍をし、最も活躍を遂げたのは肥前の国の大大名である龍造寺隆信との戦いである沖田畷の戦いになります。

非常に不利な状況でしたが、総大将を務めて参戦し3倍もの兵力で戦い方も優れた龍造寺軍を沖田畷と呼ばれる狭隘の湿地帯に誘い込み、釣り野伏せと呼ばれる島津家伝統の戦術によって見事総大将の龍造寺隆信や主力を打ち取るという快挙を成し遂げたのでした。

また、秀吉の九州征伐の先遣隊に対しても、戸次川の戦いで大勝を挙げて相手方の長宗我部信親(長曾我部元親の息子)や十河存保らを打ち取り、名を上げます。

しかし、そんな活躍の中で秀吉との講和後、天正15年(1587年)6月5日、佐土原城で急死しました。

暗殺説などもほのめかされていますが、病死とされています。

5.まとめ

島津四兄弟は、長兄の義久を中心にそれぞれの持ち味を生かして、九州平定に邁進していきました。

途中で三男の歳久や四男の家久を失いますが、幕末まで続き明治政府の中心人物を多数輩出する薩摩藩の礎を築いた偉大な兄弟と言えます。