NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公であり戦国時代の武将、明智光秀は本能寺にて当時の有力大名である織田信長を討つ本能寺の変を引き起こしました。
しかし、その本能寺の変を起こした理由について明智光秀本人は声明を出しておらず、真相は闇の中とされています。
そんな明智光秀が本能寺の変を起こした理由は多数の説があり、古今東西の歴史家や作家、愛好家が様々な説を出しているのです。
この記事では、その中でも有名あるいは有力であるとされる、黒幕の指示説、天下取りの説、えん恨の説、そして近年脚光を浴びている長曾我部との協同説について紹介していきます。
この記事を読めば、明智光秀が本能寺の変を起こした理由について考察するヒントを知ることができます。
1.黒幕の指示説
最初に紹介するのが、明智光秀の単独ではなく様々な勢力からの指示というものです。
確かに信長はその先見性の高さや強引とも言える勢力の拡張から、仏教界や商人などの経済界、室町幕府の旧臣や存命中だった将軍の足利義昭、毛利等の大名や秀吉などの家臣団から恨まれていてもおかしくはありません。
そんな黒幕の指示説として代表的なものが朝廷、そしてのちの天下人である徳川家康によるものが知られています。
これらについて紹介し、まとめました。
1-1.朝廷の指示
これは、アマチュアや一般の歴史家が提唱した説で、信長が天皇になろうとしたのを阻止したという説になります。
当時の信長は、毛利、上杉、そして武田を超える天下に一番近い人物でした。
その信長は、自分自身が天皇になろうとしていたため、公家からの指示で信長を討ったというものです。
しかし、この説は有名であるものの有力な説ではありません。
なぜなら、信長はむしろ朝廷に対して積極的に資金援助を行っており、更に公家も信長には友好的でした。
特に朝廷でも有力な公家である近衛前久(公家のトップである関白にまで上り詰めた人物)が信長派であり、スポンサーとも言える信長に対して殺害を指示するということは、あり得ないということです。
ただ、同じく有力な公家であった中山孝親が書いた孝親日記には信長が譲位を要求する場面があったという記述も見られているため、全く根拠がない説とも言い切れないのが、この朝廷の指示と言えます。
1-2.家康の指示
黒幕は徳川家康という説もあります。
これは作家小林久三氏が提唱した「南光坊天海(家康のブレーン的な存在)は明智光秀だった」という説から来ているものです。
本能寺の変に明智光秀の配下で従軍したという武士・本城惣右衛門の手記である本城惣右衛門覚書や宣教師のルイスフロイスの日本史、老人雑話から信長が家康を暗殺するという風説があったため、家康が自らの身を守るために明智光秀に信長暗殺を指示したというものや、成功の見返りに南光坊天海として家康に仕えたり、光秀の腹心であった齋藤利三の娘(春日局)を第3代将軍家光の乳母と言ったものが根拠になっています。
このように何となく有力そうな説に見えますが、家康自身は堺からの逃亡(伊賀越え)で命からがら三河に逃げていますし、明智光秀と徳川家康は同じ東海地方の武将ではあるものの、そこまで接点がないことから、有力な説とは言い難いです。
2.天下取りの説
次に光秀自身が天下取りを狙ったという理由の天下取説も有名な説として知られています。
これは本能寺の変が起こった際にはすでに言われていた古い説であり、すでに信長公記の作者でもある当時の官僚であった太田 牛一(おおた ぎゅういち)が太田牛一雑記という著書の中で、光秀が天下を狙って信長を討ったという説を紹介しています。
また、先ほど紹介したルイスフロイスも自身の書簡の中で光秀の野心によるものではないかという記述をしていることから、光秀が天下を狙って起こした行動という説は有力なものとして当時から支持されていたことがうかがえるのです。
その後江戸時代にも謀反人のような光秀の行動は、自身の野心であったという論調が盛んになっていました。
更に、光秀の行動にそれを裏付けるものがあると言われています。
それは本能寺の変を起こす前、5月28日に愛宕神社(京都市右京区にある全国の愛宕神社の総本社)で開かれた連歌会で野望を決意する歌を歌ったというものです。
その歌は「ときは今 あめが下知る 五月かな」。
ときを自身の出自である土岐氏(現在の岐阜県の名族)、あめを天下、下知るを命令とかけたものとされています。
つまり、光秀自身が天下に命令する時だという意味です。
これだけ読めば有力な説なのですが、実はこの歌会自体が改ざんされたものである可能性が高く信憑性に欠けます。
なぜなら、その記述がある惟任退治記の作者は、秀吉の伝記である天正記を書いた大村由己であり、秀吉の側近だった人物だからです。
3.えん恨の説
えん恨の説は、光秀が信長から様々なひどい扱いを受けており、その復讐とするものです。
その根拠は、主に諏訪での折檻、母親が見殺しにされた、国替えと言ったものが挙げられます。
諏訪での折檻は信濃の国の諏訪で、信長から光秀が暴力を受けたというものです。
武田氏を滅ぼし、武田征伐が終わった後、諏訪で家臣団が集まりました。
その際に光秀が「我らも苦労した甲斐があった」という発言をしたのに対し、信長が「お前は何の功があったというのか」と言って激怒し、暴力を振るったというものです。
多くの家臣の前で恥をかかされたことから、恨みを持ったというのが根拠になります。
これは、江戸時代の見聞談、祖父物語(著者柿屋喜左衛門)によるもので、歴史が遡った資料であることや町人の著作であることから資料として信憑性に欠けるのです。
母親が見殺しにされたという説は、天正7(1579)年に八上城攻略の際、光秀の母親を敵の人質とし、敵方の波多野秀治兄弟を投降させ、信長の許しを得ようとしたことがきっかけになります。
この光秀の調略は不調に終わって、波多野兄弟は磔、報復として八上城に送った母親も殺されてしまったという悲惨な最後となったのです。
ただ、この話も作り話であるとされ、信長公記にはそういったトラブルの記述はなく、母親自身もこの八上城攻めのかなり前に亡くなっていたという記録があります。
そのため、これも信憑性に欠けるのです。
国替えは、光秀の元々の根拠地である近江坂本・丹波が取り上げられてしまい、当時毛利の領地となっていた出雲・石見を渡すというとんでもない要求が根拠になります。
ただ、この要求の資料となっているのが誤記が多い明智軍記という二次資料であり信憑性に欠けるものです。
ただ、近畿(中央)から左遷のような何らかの処遇がえん恨の原因になった可能性があります。
いずれにしても分家とはいえ、源氏の血を引く土岐氏出身の明智光秀が守護大名の代官の家柄、しかも更に分家筋に当たる身分の低い織田家に対して何らかの不満があった可能性は低くありません。
4.長曾我部との協同説
近年注目されているのが、長曾我部を助けるために信長を討ったという説です。
明智光秀は長曾我部家と織田家の仲介役を行っていたことと腹心の斎藤利三が長曾我部家と深い関係にあったことがその理由になります。
明智光秀は役割上のちに秀吉に譲るものの長曾我部との交渉役となっていました。
これだけの関係であれば、助ける理由はありません。
しかし、実は光秀の腹心である齋藤利三の兄(石谷頼辰)が長曾我部元親の息子である信親の義理の父親という関係だったのです。
そういった関係ではあったのですが、当初信長は長曾我部家を討つつもりはなかったもの、武田家を滅ぼしてから方針転換を行い四国征伐を行うという方針に切り替えました。
この急な心変わりは、斎藤利三書状(天正10年(1582) 1月11日)、長宗我部元親書状(天正10年(1582) 5月21日)の内容から判明しており、長曾我部家ひいては腹心の斎藤利三の家族を救うために光秀が動いたというものです。
5.まとめ
主な理由を紹介してきましたが、いずれも有名な説でありながら、決定打にかけているのが事実です。
有名な歴史上の出来事、本能寺の変の実際の理由が闇の中というのは今も歴史のミステリーとして知られています。